毒親父で育った私〜シングルファザー家庭の食事事情〜

毒親

はじめに

こんにちは、まりるりです。

私は、小学2年生で母を癌で無くして以来、父と妹と3人家族で生活してきました。

私にとっては、唯一の親だった父ですが、そんな父が他の家の親と比較して、変わっているということは、当時は全く気がついていませんでした。

というか、そもそもシングルファザーが当時はほとんどいなかったので、しかも田舎ですし・・・

それ事態が変わっていたせいか、父が変わった人だということに気が付かなかったのかもしれません。

やっぱり、父親一人で娘を2人育てるのは難しいということで、母が亡くなった直後は、隣家に住む母の姉夫婦が、私たち2人を養子にもらうという話も出ていたそうです。

しかし、父が反対したそうです。

どっちと一緒になった方が幸せだったのか、今、大人になって改めて考えさせられます。

父は愛着障害でいうところの不安型でしたので、母を亡くした後に、娘2人も失うことに強い不安を覚えたのだと思います。

だから、私たちを手放さなかった。そのように思います。

私たち家族は、叔母夫妻と母方の祖父母に頼りきりで、なんとか生きてこれました。

例えば、食事ですが、父は料理が全くできなかったので、

平日は、祖母が朝の食事をもってきてくれて、私たち孫の学校の支度などを手伝ってくれました。

夜は、叔母が食事を持ってきてくれました。

休日は、朝、夜と、叔母&祖母宅に行ってご飯を食べていました。

今思うと、すごいですよね。

だって、いくら隣に住んでいるとはいえ、もう母は亡くなっているわけで。

そりゃ、私たち子供は、叔母の姪であり、祖父母の孫ですが、

戸籍上は、母は亡くなっているのです。

母方の親戚に、まさにおんぶに抱っこ状態です。

 

高校生に上がった時、それまで給食だった生活が、お弁当になりました。

叔母には、3人の子供がいまいたが、すでに成人していました。

なのに、私たち2人のために毎日、お弁当を作って、朝、家まで届けてくれました。

反抗期真っ只中でしたが、私たちは、父と祖父に反抗することはあっても、

叔母と祖母に反抗することは一切ありませんでした。

 

叔母宅が、うちに食事を届けてくれたのは、妹が大学6年を卒業して、一年間の予備校生活をしていた時まで続きました。

私はすでに一人暮らしをしていたのですが、叔母には本当に頭が上がりませんでした。

 

実は、隣家にある叔母&祖母宅は、民宿を営んでいました。

私はよく、夏になると合宿のお客さんがたくさん来るので

お手伝いに行っていました。

そこで、いろいろ料理を教えてもらいました。

母がいなくても、こうして叔母や祖母に母親代わりとなって支えてもらいました。

 

今では、うちの食事は、妹が作ってくれているみたいです。

父も自分の分くらいは、なんとか作れるみたいです。よかった。

そんなこんなで、今日は、毒親父で育った、シングルファザー家庭の食事事情についてお話ししました。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました♪

 

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